看板屋の息子

西森家の四人兄弟の長男として生まれた私は、物心ついた時から「お前は西森看板の跡継ぎだ」と言われて育てられた。
それで幼い頃から、私は家業を継ぐことが当たり前なのだと思っており、小学校の卒業文集にも「将来は看板屋の社長になる」と書いていた。
当時、1階に事務所兼生活スペースと、その隣に工場があった。
工場は今のように装置化されておらず、職人さんが筆とペンキで看板を書いており、いつもシンナーの匂いが漂っていた。
小さい頃は生き物が大好きで、弟や近所の子分を引き連れては、虫を採ったり、魚を捕まえたり、カエルやザリガニを捕まえてばかりしていた。
産卵まぎわのお腹の大きいカマキリを捕まえてきて自宅の部屋で産卵させ、春に何百匹の子カマキリが生まれてくるのを観察したり、川で大きなコイを捕まえてきて、風呂場に水を貼って飼ってたけど1日で死んでしまったこともあった。
今思えば、うちの母親はよくそんなことを許したもんだ。
そんな感じで、私は自由に好きなように育てられた。
その後、中学、高校と進み、大学に進学。
大学時代、父に借りた新車のインテグラで友達と一緒にドライブに行き、無茶な運転をして事故を起こしてしまい、車を廃車にしてしまった。
父にはこっぴどく怒られ、本当に悪いことをしたと反省した。
いつかお金がたまったら、父に車を買ってあげようとずっと思ってたが、結局実現することはなかった。
大学卒業後、東京に1年間の研修に出る。
本当はイギリスに留学したかったのだが、お金も無いしあてもなかったので、「1年くらい東京の空気を吸うのも悪く無いのでは」との父の言葉で行くことを決心する。
研修は、当時出雲商工会議所が行なっていた「後継者育成事業」。
後継者が東京銀座で働き、銀座のエッセンスを身につけるというものだ。
仕事場は、銀座8丁目にある「資生堂パーラー」の1階売店。
そこでケーキやお菓子を売っていた。
住居は、川崎にある東横線沿線の「元住吉」駅から歩いて15分の所。
親会社である資生堂本社の社宅でもあり、2、3階は女性ばかり、1階が防犯のために男性が入居しており、その一番奥の部屋に住んでた。残念なことに、他の階の人たちとの交流は全くなかった。
そして3月末で研修を終えるのだが、東京が楽しくて仕方なかった私は、4月末まで勝手に社宅に住み着いていた。そうしたら新しい人が入居して来られ、管理人さんに「あなたまだいたの!?」と言われ、追い出された。
その後も帰りたくなかったので、友達の家を転々としていたが、残りのお金が8000円になり、そのお金で出雲に帰るバスに乗って帰った。その時はすでに5月になっていた。
そしてお金もないので、もう一度お金を貯めてイギリスに行こうと、父親の経営する会社に入社する。営業担当となり、お客さんとの打ち合わせなどを行なってきた。
しかしお金は貯まらず、仕事もやめられない雰囲気となってきて、その時初めて父に騙されたと感じた。そしてズルズル仕事をやることになる。
その頃の私は、とにかく勤務態度が悪かった。
営業に出かけてくると会社を出ては、パチンコ、本屋で暇つぶしをしていた。
そして当時から探検することが好きだったので、脇道があったらそこに車で入っていき、2回も溝に落ちて車が動かなくなり、友達に助けてもらった。
こんなやる気のない人間をよくも我慢して使っていたものだと、我が父ながら器の大きい人だったんだと今更ながら思う。私が父なら、すぐクビにしてるだろう。
そんな調子でしばらく働いていたが、少しずつ仕事が楽しくなり、もっと売上を上げたいと思うようになってきた。そんなある日、私の価値観を変えるできごとが起きる。
(続く)

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