自分の生い立ちを書こうと思い立ってから早一ヶ月、久々に書きます。
最近色々と思い悩むことが多いので、こんな時こそ原点回帰、初心に帰るべし。
1971年12月、島根県出雲市で西森家の長男として生まれる。
普段はむちゃくちゃ怖い父が、私の誕生を涙を流して喜んだ。
分かるなぁ、私も自分の長男が生まれた時は嬉しかった。
医大で生まれたけど、毎日ガラスを覗き込みに行って何十分も眺めていたもんだ。
赤ん坊の頃は、それはそれは大きな声で泣いていたらしい。
その頃、両親は雇用促進住宅に住んでいたらしいが、あまりの騒音(私の)で山奥に引っ越した。深夜、山にこだまするくらいの大声で泣いていたとか。
あまりのうるささに、父がパコッと私の頭を叩いたそうだ。(父はものすごい短気だった。)すると、更にボリュームを上げて泣き出して手がつけられなくなったとか。
やがて父の仕事の関係で、米子に引っ越す。
そこで弟(次男)が生まれる。
当時の私(3〜4歳)は歯が丈夫で、喧嘩になるといつも噛みついていたそうだ。
とてもかわいかったらしく、よく知らんおばさんに可愛がられており、何度か勝手に連れ去られた思い出がある。
幼少期は生き物が大好きで、虫とか魚とかたくさん捕まえていた。
産卵間際のカマキリを何匹も捕まえてきて部屋で産卵させ、春に何百匹もの小さなカマキリが産まれてくるのを見るのが楽しかった。
ヤゴもよく捕まえてた。壁に捕まらせて、脱皮するのをずっと見てた。
川で大きなコイを捕まえて、風呂場に水を溜めて飼っていたら、翌日死んでいたこともあった。
その後出雲に戻り、三番目の弟が生まれる。
この頃の記憶は不明瞭だが、今市のボロな一軒家(連紹寺の近く)に暮らしていた。
唯一覚えているのは、夜中にネズミが次男の耳をかじり、父がネズミを退治して高瀬川に捨てに行ったなあ。
そういえば今市幼稚園に通ってて、廊下で走っててガラスに手をついた瞬間、ガラスが割れて両手首を骨が見えるくらい切った。ものすごい血の量だったが、不思議と全く痛くなくてポカンとしてた。びっくりしたのは先生で、泣きそうな女の先生におんぶされて産婦人科に連れて行かれた。その時に麻酔を何本も打たれて、それがめちゃめちゃ痛かったのを覚えている。
その傷は今でも残ってる。
やがて今市小学校に入学。
掃除の嫌いな子で、掃除の時間は物陰に隠れていた。
一年生の秋に、渡橋(現在の実家)に引っ越す。
一年生の終わりまで、渡橋から今市小まで独りで歩いて通学してた。今思うとすごい。
ある日、ものすごい大雪の日に一人で今市小から帰っていた。
その時に親切な大人の人が見かねたのか、「家まで連れていってあげる」と声を掛けてくれた。しかし幼い私は「知らない人にはついていったらダメって言われてます。」と敬語で断った。そしたらその人が自宅まで行って親に伝えてくれて、親が迎えに来てくれたことがある。
小学校2年生の時に四絡小に転校。とても活発な子で、クラスの発表チャンピオンだった。
6年生の時には議長団(各クラスから男女二人ずつ選ばれる生徒会みたいなもの)に入っていた。あと、体操部のキャプテンをしていた。当時からバク転とかバック中とかやっていたので。その頃は田んぼの稲刈りした後のワラの上で練習してた。
乗り物も好きだったなぁ。
小学校4年生の時に、乗り物教室というイベントに参加して、初めてSLや新幹線に乗ってすごく嬉しかったことを今でも覚えてる。
それとパソコンも好きで、近所のパソコン教室に通っていた。生徒は私以外は全て大人。当時のパソコンは確かNECのPC8001だったような。それが新聞に取り上げられ、「パソコン少年現る!」と写真入りで紹介されたこともあった。
両親は、私にほとんど何も言わず、好きなことを自由にさせてくれた。
宿題もやったことがないけど怒られなかった。
この頃が人生のピークだったかも知れない。