共に生きる ー機関紙147号ー

今回の塾長講話は「共生」について。
読んで字のごとく、「共に生きる」ということだが、安易に「助け合って生きる」というのとは異なり、「生きると言うことは厳しいものです。さまざまな重圧がかかり、障害があり、厳しい環境に追い込まれます。その中で、それをポジティブに受け止めて、その厳しさが今日の私をつくってくれたと感謝をする。そういう生き方が「共生」なのです。」
と書かれていた。つまり、
「必死に生きていき、その中にこそ調和がある」
ということである。
道端の雑草も、サバンナのライオンも、鹿も、周りのためと考えて生きているのではない。自らが生き残るために弱肉強食の世界で必死で生きている。その中で食物連鎖などの「調和と循環」が生まれてくるのだという。
「共生」とは生易しいのとは違い、たくましさがいるのである。
「目先のことだけ考えて共生と言ってはいけない。そんな生っちょろいことを言っているのではないりどんなに厳しい状況でもそれが自分を強くしてくれると感謝して、努力に努力を重ねて強くなりなさい。その上で、その中で共に生きていくのが共生なのです。」
講話の中で、松下電子工業の下請けだった京セラの話が紹介されていた。
松下電子工業は、毎年毎年、京セラに対して鬼のような値引き要求を行なっていき、京セラもそれになんとか応えようと、効率化をはかったりなどの企業努力を重ねて、鍛えられてきた。そうすることで、短い期間で会社を強くすることができ、お互いが切磋琢磨して成長していった。これが「共生」であると。
だから松下さんには大変に感謝をしておられるということです。
私なら毎回愚痴を言ってしまいそうです。。。
よく出てくる「利他」という言葉は、安易に「相手が喜ぶために尽くすと」いう意味でとらえがちだが、例えば企業間取引において、相手が喜ぶように高い値段で仕入れをしてあげたり、談合して住み分けをしたりするという、「下手な、近視眼的な優しさや思いやり」という考えは間違っているという。そんな生易しい生き方で、そんな甘えの構造があったのでは、下請けだってすぐに淘汰されてしまう。
つまり、優しい思いやりというのは、安易な優しさではなくて、厳しさの中にある優しさなのだという。そのところを誤解しないように、短期的な視点ではなく、長期的な視点で、更に相手にとっても自分にとってもよかれと思う判断をしていこうと思う。
そして、なぜ経営するのに正しい心が必要なのかが書かれていた。それは、

「自分自身の人生、将来には必ず明るいものが開けている。それはこの宇宙が、ポジティブで良い方向に行くように仕向けているのだから、それに逆らって反対側を向かない限り大丈夫だ。自分もそれを肯定し、『私の人生は必ずうまくいく』と信じて、一生懸命努力をしさえすればいいのだ」と思っている人は、必ずうまくいくようになります。」

今まで何度もでてきたフレーズで、そんなもんなのかと軽く読んでいたが、今回初めてハッとさせられた。
まとめると、どんな人間も幸せになるように、宇宙の意思というものが働いている。その力を受けるためには、人間として正しい心で考え、行動すること。ということです。
少しスピリチュアルな話のようにも聞こえるが、稲盛さんは自らの人生でこのように確信を持たれたそうだ。
私の人生、仕事はきっとうまくいく。
これからも人間として正しい行動をし、一生懸命に努力をしていきます。

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